治療院名

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院長名前の由来


 私の名前は、降幡 儒太郎(ふりはた じゅたろう)といいます。よく「変わった名前ですね」とか「本名ですか?」などと言われます。なぜ、このような名前になったのか、お話したいと思います。

※「降幡」という姓の由来については、「降幡のルーツ」をご覧下さい。

 まず「儒太郎」という名前について。私の祖父は「儒策(じゅさく)」といいます。祖父母には子供がいませんでした。祖父母の隣に住んでいた私の父は、可愛がられ3歳の時に、降幡の家に、もらわれたのです。
 やがて、成人した父は結婚し、私が生まれました。私に命名する際に、父は自分と祖父の関係、孫である私と祖父の関係を深めるために、祖父の名「儒策」の儒をとり「儒太郎」と名付けたのでした。養子として、父にできる、親孝行だったのだと思います。ただ私としては、子供の将来や希望に夢を馳せて、命名して欲しかったと思っていますが・・・。

 次に、私のすぐ下の弟は「恵太郎(けいたろう)」といいます。これも祖母の「千登恵(ちとえ)」の恵に太郎を付けたものです。そして三男の「龍太郎」は、当時、父がやっていた会社が「天竜工芸社」といいまして、その竜を龍に変えて太郎をくっ付けたものです。そして「太郎」には長男という意味が含まれているので、三兄弟すべてに太郎を付けるのは、やはり相応しくないようなのです。

 私も結婚し2人の子供がいます。子供には少しでも“幸運な人生”を歩んで欲しいと願いを込めて命名しました。ちなみに「紅瑠実(くるみ)」と「憲佑(けんすけ)」といいます。

 先日「儒」という字を漢和辞典で調べてみました。〜雨が物をうるおすように、徳をもって人を教える者〜と、ありました。祖父の儒策は、長野県から宮城県に行って「養蚕の指導」をしていました。私も将来は、私と縁の深い、治療家の後輩達に対し、私が今までにマスターした、治療法や考え方など指導出来たらと考えています。そしていずれは、海外の治療家達にも、同様の事をしたいというのが、私にとっての大きな夢です。




第一部  落ち延びた降旗氏(名九鬼、降旗氏)
 
 「降幡」の姓の意味は、旗を降ろした、つまり降参した事を表す苗字です。では誰が、誰に対して降参したのか?それは平家が源氏に対して降参したという事なのです。(平家の象徴である赤旗を降ろしたという事・・・ふんどし、腰巻、鼻緒なども赤で、「足元を見る」の語源という説もある)

 平安時代末期、一ノ谷の戦いで源義経に敗れた平清盛の五男、平重衡(たいらのしげひら・・・奈良の大仏を焼いて非難を浴びた人)は、鎌倉に連行された後、大仏焼き討ちを深く恨む南都勢力による再三の引渡し要求によって、奈良に送られます。程なく木津河畔にて処刑され、奈良坂に梟首されました。
 それを知った重衡の息子の重度(しげのり)は、信濃(今の長野県)で勢力を持っていた豪族仁科氏を頼って落ち延び「降旗」を名乗ったのでした。(文治2年5月)

 落ち延びた先は、長野県東筑摩郡明科町東川手名九鬼 松本から北に20キロ、訪ねてみるとわかりますが、街道からはずれ、山の中にひっそりとある小さな集落です。集落の入り口に墓地がありますが、この墓地も源氏来襲時には砦となり、また集落の奥には隠れ家や抜け道などが周到に用意されていたのでした。姓を変え、家紋も変え、山奥で危機に備えひっそりと暮らした降旗の先祖の事を思うと、源氏による平家の残党狩りの執拗さ、凄惨さを感じます。
 そして、落ち延びた「降旗氏」はこの地でひっそりと暮らし、その子孫の中には現在でも名九鬼(なぐき)の地で生活を営んでいる人々もいるのです。

 ●平重衡の最期が、NHK大河ドラマで放映されました
 平成17年10月16日(日)ついに降幡の祖、平重度の父、平重衡の最期が、大河ドラマ「義経」で、放映されました。
 この場面は「平家物語」の中でも有名な所で、平重衡は形見に額のあたりの髪を噛み切り、妻輔子に渡し、「縁があれば来世で逢い、同じ蓮の花の上で一緒に暮らそう」と言い残して、首を斬られます。
それを確認した息子重度は、信州の山奥へ落ち延びます。
 ただ、重衡の息子の重度は「平家物語」には登場していないので一般には知られていません。
 大河ドラマ「義経」では、平重衡を細川茂樹さんが、妻輔子を戸田菜穂さんが、演じていました。

名九鬼の現風景
京都市伏見区日野にある平重衡の墓

第二部  平家再興を企てた降旗氏(岡谷、降旗氏)

 時は経ち、鎌倉時代末期、鎌倉幕府倒幕に失敗した後醍醐天皇は流刑先の隠岐ノ島を脱出。足利尊氏と手を結び鎌倉幕府を滅亡させます。そして天皇が中心になって政治を行う「建武の新政」を興しますが、3年で崩壊。その後南北朝の動乱へと突入します。(後醍醐天皇は南朝)

 その時、名九鬼に住む、降旗政忠(ふりはたまさただ)は志を胸に都を目指します。(平家再興という夢を持って・・・)京都で20年間学んだ政忠は、都では平兵衛佐政忠(たいらのへいざまさただ)を名乗っていました。そして後醍醐天皇を頼った政忠は、後醍醐天皇の第8皇子「宗良親王」の筆頭従者となり(その他の従者として、玉木氏、藤森氏、御子柴氏、小口氏、花岡氏など)中部地方統治のため長野県岡谷市長地柴宮に現れ、(私の実家から歩いて1分位の所)柴で作った「柴宮御所」を造営。伏流水は「御所清水」。

その後、宗良親王は南下して平家の落人が住む長谷村を経て大鹿歌舞伎で有名な大鹿村の香坂高宗氏に迎えられて大河原城に入り、以来30余年の間ここを拠点として活動されました。やがて後醍醐天皇が崩御し、宗良親王・懐良親王・北畠顕能など各地での戦闘を指揮してきた重鎮たちがたてつづけに死去すると南朝の勢力は、急速に衰え南朝は終焉を迎えます。

 南朝の終焉により平家再興の夢を叶える事が出来なかった政忠は、宗良親王から譲り受けた伏流水「御所清水」と「田」を所有、岡谷降旗氏の総本家となり源氏の脅威の去った世で子孫の繁栄を果たしました。

柴宮から50M程の所にある
降旗政忠の墓
柴宮にある宗良親王の記念碑
「宗良親王御奮蹟地」
建武中興六百年祭記念とある

第三部  武田信玄に随身した降幡氏(降旗から降幡へ)

 更に時は流れ、室町時代末期、世は群雄割拠する戦国時代に突入していました。この頃の信濃の国は・・・家督を相続した武田信玄は、信虎時代から政治工作を行っていた信濃平定に乗り出しており、諏訪氏の内紛に介入して、1542年には高遠頼継と手を結んで諏訪頼重を滅ぼして諏訪郡を平定します。その後、領土問題から頼継と対立して、これをチャンスとして1545年には高遠城を落とし、さらに頼継や藤沢頼親も滅ぼして南信濃を完全に平定していました。

 名九鬼に住む降旗重正(しげまさ)は降旗一族の当主として一つの決断を迫られていました。信玄と戦うか、配下となって従うか!
 源義経と同じ騎馬戦術を得意とし、戦国最強の騎馬軍団を指揮した武田信玄は、清和源氏の中の甲斐源氏の新羅三郎義光(八幡太郎義家の弟)を祖とし、代々甲斐の守護を務めた武田家の第十九代当主。源氏の配下となって生き延びるか、平家の意地をかけて、信玄と戦うか。しかし、結果は目に見えていたのです。

 そしてある夜、重正は夢を見ます。それは源氏の追っ手から必死に逃げ延びながら「平家滅亡は汝の為なり」と言う降旗の祖、重度の夢でした。「ご先祖様には申し訳ないが・・・」重正は決断し、大法要を執り行い、その時、先祖から受け継いだ「降旗」の旗の字を幡に代え「降幡」に改名したのでした。更に重正は息子政重(まさしげ)を人質として信玄に差し出し降幡一族は、武田信玄の軍門に下り、配下として信玄に随身する事となったのです。そして、岡谷の降旗氏もこれに倣い「降幡」に改名しました。

 信玄の人質となった政重は元服の後、上杉謙信との4度の川中島の戦い(名九鬼は川中島に近い)などで、度々武功を上げ、備前の守に任ぜられると、古文書にはありますが、これは武田信玄が天下をとったら、備前の守を任せようという叶わぬ約束だったようです。

 やがて、武田信玄の領土は甲斐、信濃、駿河、上野、遠江、三河と美濃の一部にまで及ぶ強大な勢力となり、1572年10月、信玄は遂に念願の上洛を目指して遠江に侵攻し、12月には徳川家康を三方ヶ原の戦いで破ったのです。しかし直後に信玄は病で倒れ、1573年4月、軍を甲斐に引き返す途中、信濃国駒場で病死しました。
 その後、天下は信長、秀吉、家康によって統一され、徳川幕府による、300年に亘る統治が行われたのはご存知の通りです。

名九鬼にある降幡政重の墓
武田信玄の肖像画

※「院長、名前の由来」にも記載しましたが、私の父が幼少の頃、降幡の家にもらわれた事からも分かるように、私は降幡家と血縁関係はありません。ですから、自分が、平清盛の子孫だとか、桓武平家の末裔であるとかを、主張するつもりはありません。 ただ、私の苗字の「降幡」は珍しいので、それには、こんな謂れがあるのです、という事を分かる範囲で書いてみたという事です。


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